2011年5月 8日 (日)

2011.5.8 ブログ移転

※2011年12月24日改稿。

勢い余って、ブログを移転することにした。

ここで、これまでを振り返っておくことにする。

 

最初にインターネットに文章を書き始めたのは、大学生のとき、2005年のことだ。

当時はブログが全盛期だったが、無料ホームページでHTMLで手書きでタグを打っていた。ホームページビルダーとかも使わず、マジで手書きだ。

その理由はいくつかあるが、単に時系列に(しかも上下が逆に!)表示されるというのが気に食わなかった。

ひとつのテーマについて書き続けるというのは考えられなかったので、それぞれにページを作ってカテゴライズをしたかったのだ。

このころは実際のところ、文章を書くよりもホームページそのものを作るほうが楽しかった。

 

その後、就職をした。

とても働いていたので、インターネットに接続できなかった。プロバイダと事前に約束した日に在宅できない、ということが数回続き、半年かけても接続できなかったのであきらめたのだ。

 

のちに転職をして、時間があるのでブログを始めた。

それがこのessereである。

essereで目指したのは「どこに話題の中心があるのか不明で、一貫性がないブログ」だ。

なぜココログを選んだかというと、ブログを製本できるサービスがあったからだ。

当初、半年で1冊にしようと思っていたのだが、書きすぎて1冊8000円くらいの見積もりが来たので、やめた。

 

そんな中、昨年の秋にauから発売されたスマートフォン「IS03」について、間違って「ISO03」と表記したところ、僕と同様に「ISO03」と間違って検索した方々からのアクセスが殺到した。

なんと、googleで「ISO03」と検索するとこのブログが1位に出てくるのだ。

それ以降、かなり検索エンジンからのアクセスが増えてきた。

例えば、「堀江 原発」でも一位で表示される(本日現在)。

 

一方、津田大介氏の『Twittter社会論』を読んだことがきっかけで、Twitterをはじめた。

その後、スマートフォンを購入した際にアプリがあったので、mixiとFacebookもはじめた。

さらに、電子書籍を自分で作ってみたりもした。 

 

こうなると、ブログの意義も変わってくる。

ブログessereでは、僕を主体として発信がされていたが、それはTwitter、mixi、Facebookで可能になった。

もちろん文字数の制限があるのだが、長文であれば、電子書籍を作ればいいだけの話だ。

問題は日記だが、これはmixiの日記で書くことにする。

まぁ、今までもあまり日記っぽいことは書いていないし、これからもあまり書かないだろう。

 

一方、ブログの特徴は、アクセス・フリーであることだ。

そして、コメントが書き込めるなど、「場」としての機能を持っている。

 

そこで、数あるブログの中でもユーザーの交流性が高い「はてな」で、新しいブログを作ることにした。

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2011年5月 5日 (木)

2011.5.5 ブログにボタンを設置するため悪戦苦闘したわりに成果が出ずにヘコみ気味だがヘコむならお腹がヘコんで欲しい

朝から10時間近く、

Facebookやmixiや「はてなブックマーク」のボタンをブログに設置してみようと、

ご飯も食べず(コーヒーは2杯飲んだが)にぶっ続けで悪戦苦闘した挙句、

成果は、

コレ→ mixiチェック

 コレ シェア

の設置方法が分かっただけだった。

mixiのボタンは文字の右側に出せるのに、

facebookのボタンは文字の左側に出るのだ。

なんでだ。

 

 

mixiの「イイネ!」ボタンは、一度は設置できたのだけど、

なんか良く分からんができなくなった。

いや、設置はできるのだ

ホラ→

でもね、押すと、消えちゃうのよ。

お化けボタンだよ。

へい、ユー、試しに押してみなよ。

あと、Facebookの「イイネ!」ボタンも置けるよ。

コレだ

 

 

でも、ページごとにURLを入力してHTMLを生成しないといけなくて、

「そんな面倒なことしたくなぁい!」

と思って調べてたら、「wordspress」なる壁にぶち当たったのだ。

もうね、それは越えられない壁だったのだ。

お腹減ってるのだ。

 

「wordspress」を攻略したら、「はてなブックマーク」もいけそうなのだけど。

 

 

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2011年5月 2日 (月)

2011.5.1 ソーシャルメディアという「井戸端会議」

ソーシャルメディアが既存のマスメディアを崩壊させるという話があるが、まぁ、どうでしょう、極端な話、どうでも良い。

とはいえ、ソーシャルメディアは、マスメディアにはない特徴をもっている。

 

まず最初に「マスメディアとは何か」という点を考えると、「そのメディアを見ている人がマス(たくさんいる)」、つまり「マスへのメディア(メディア to マス)」ということになる。

これを「メディアがマス(規模が大きい=価値や信頼性が高い)」、つまり「マスからのメディア(マス to 個人)」だと勘違いしている人がいる。

こういう人は、ソーシャルメディアには向いていないだろう。

 

一方、ソーシャルメディアは、「メディア to マス」でも「マス to 個人」でもない。

「個人 to 個人」のメディアである。

それが無数に集まっているので、全体として見れば「マス to マス」のメディアということになる。

しかしながら、我々は「自分自身がマスそのものであるという認識」は持ち得ない。

例えば、自分自身を「このCMを見ている日本人数百万人そのものである」とは思えない。

(「マスメディア」を「マス to 個人」と勘違いする理由はここにある)

つまり、認識できる単位、つまり個人単位で見た場合、ソーシャルメディアとは、発信する場合は「自分 to マス」であり、受け取る場合は、「マス to 自分」になる。

 

さて、「ネットの情報は信頼できない」という人がいる。そういう人は「マスメディアの情報は信頼できる」と考えているわけで、おめでとうございます。

とはいえ、「ネットの情報が信用できない」というのは正しい。

しかしそれは、別に「ネットだから」なのではなく、「個人を発信源にしているから」だ。

マスメディアはビッグビジネスなので、情報を発信する際、集団による多重のチェックが行われる。

これにより「間違っていることが明らかな情報」が事前にチェックされるという構造だ。

 

一方、ソーシャルメディアは、個人からの発信なので、それを信用するかしないかは「あなたがその人を信用するかしないか」という問題でしかない。

それが間違っていても、それは単にあなたがその人を信じただけで、その人が非難される筋合いはない。

一方、ソーシャルメディアでは「間違った情報を発信して広めるな」という指摘や意見も多く見られるが、ほとんどが感情的、イデオロギー的、または意見が分かれてしかるべきものであるように見受けられる。

客観的に間違ったことを発信してしまった場合(例えば「今の総理大臣はビートたけしです」とか)は、お詫びして訂正すればいいだけの話だと思う。この点はマスメディアと一緒だろう。

 

ソーシャルメディアの特殊な点は、双方向性にある。

リアルタイムで、いろんな人がいろんな意見を言う。

その意見が交わされる場所はTwitterであり、ユーストリームであり、mixi、つまり各種のプラットフォームだ。

それらは物理的には存在しなくても、確固とした「場所」である。

そして、そこで行われるやりとりでは、個人の顔が見える。

また、身近なちょっとしたことから社会的な問題までが同じレベルで取り上げられる。

まさに「井戸端会議」のようなものだ。

 

ソーシャルメディアからの情報を享受するには、少なくとも「井戸端」まで出かけなくてはならない。

つまり、プラットフォームの会員になり、定期的にアクセスする必要がある。 

また、「どこの井戸端」に行くか、というのも、重要な問題だ。

あなたが「どこの井戸端にいるのか」ということが、あなた自身をを表しているのだ。

 

 

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2011年5月 1日 (日)

2011.5.1 ソーシャルネットワークという「村社会」

SSK氏と会った。

まず、昼食にスペイン料理のValeへ。

http://www.vida-corp.com/v_index.html

西宮北口周辺では一押しである。 

 

昼食後、SSK氏が仕事の関係もあってショッピングモールに興味があるというので、西宮ガーデンズを案内。

SSK氏は、「百貨店ベースのショッピングモールは珍しい」と言っていた。

確かにそうかも。

西宮ガーデンズの空中庭園で話をした。

トピックのうちのひとつが、Twitter、Facebookなどのサービスについてだ。

これらのサービスは、「ネットワーク」という側面と「メディア」という側面がある。

まずは、「ネットワーク」のことを書く。

 

例えば、twitterをはじめたものの、何をやったらいいか分からないという人がいる。

また、mixiを始めたけど、mixi内の人間関係が面倒でやめる人もいる。

Facebookにいたっては、日本人には分かりにくいつくりだし、実名というのも馴染まない。

おそらく、それぞれ利用しているのは日本の20代で人口の20~30%程度、Facebookでは10%以下ではないか、という感じだ。

そういった状況で、果たしてソーシャルネットワークが世界を変えるだろうか、という疑問について話をした。

 

個人的には、変えると考えている。

ただし、一気に広まるという形ではなく、世代交代によってゆっくりと変わっていくと思う。

例えば、今でも、パソコンを触ったことがなくキーボードで文字入力ができない世代(僕が「世代」という場合、「そういう人が多い世代」という意味)というのはいる。

とはいえ、パソコンは社会を変えたし、現在ではパソコンが使えない人は明らかにマイノリティである。

ただ、パソコンの普及開始を1980年とすれば、こういう状況に至るまでに30年程度かかっている。パソコンが苦手な世代を今の70歳以上だとすると、当時は40歳だ。

 

これと同様に、今から30年後には、パソコンと同じ程度にインフラとしてソーシャルネットワークが普及していると考えることは、ごく自然である。

ソーシャルネットワークのメインの利用層が今の40歳以下だとすると、30年後には70歳になっているので、仮に利用率が80%程度だとしても、人口の半分以上である。

そのとき使っているのがTwitterか、Facebookか、それとも別の何か、かというのは、使っているパソコンがウィンドウズか、MACか、リナックスか、といった程度の些細な問題でしかない。

つまり、それらを合わせた「ソーシャルネットワーカー」が過半数になった時点で、「非ソーシャルネットワーカー」はマイノリティとなる。

 

ソーシャルネットワークで起こる事態の一つが、「ご近所付き合い」だ。

「村社会」と言っても良い。

「誰がどうした」とか、「あいつがこう言っていた」なんてことが、一瞬で広まる。

ソーシャルネットワークでは、伝えたい人だけに伝えるというわけにはいかない。

これは非常に面倒な事態だ。

「人から嫌われたくない」という人には向かないと思う。

一方で、キリスト教でいう「愛すべき隣人」は、ソーシャルネットワークによって距離を超越したことになる。

「身近な人」という概念が、変わっていくだろう。

 

旧来の「村社会」は、必然的に「村」を中心として構成される。

一方、場所という概念がほとんど無関係なソーシャルネットワークで形成されるコミュニティの中心は、2種類ある。

1つは、Twitterのフォロワー、Facebookのフレンド、mixiのマイミクなどのように、「人を中心としたコミュニティ」である。この場合、その人にとっては「自分がそのコミュニティの中心」だが、それと同時に「自分は無限にあるコミュニティの中心の1つ」でしかない。

もう一つは、Facebookのファンページ、mixiのコミュニティなどのように「トピックを中心としたコミュニティ」だ。これは、2ちゃんねる掲示板も含まれるだろう。

つまり、「自分」を確立しつつ、「興味あるトピックを持っている」ことが、ソーシャルネットワークのユーザーには不可欠であると言っても良い。

 

今、いろんなところで、「コミュニティ」という言葉を聞く。

特に「無縁社会」という言葉が広まっているが、これに対するもっともな批判として、以下のようなものがある。

「無縁社会を作ったのは、高度成長期を担った団塊以上の世代だ。彼らが、経済を優先してコミュニティを崩壊させた張本人である。それが、自分たちが年をとったとたん、無縁社会を嘆くなど、どうかしている」

実際のところ、今のソーシャルネットワークのユーザーは、この「無縁社会を作った人たち」のようにはなりたくない、そう思っているのだ、きっと。

 

 

 

 

 

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2011年4月29日 (金)

2011.4.29 「中村佑介の世界展」

大手前大学アートセンターで開催された展覧会 「中村佑介の世界展」に行ってきた。

展覧会の様子は、中村佑介氏のブログに写真などがあるのでそちらへ。

 

「中村佑介ブログ 僕のアベノらいふ」

http://abenolife.exblog.jp/15366912/

 

 

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まずは、大学内を散策。

西宮は恵比寿の総本山。

ということで、恵比寿の石像を発見。

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ルパン三世の原作者、モンキーパンチが教員をしているのだ。

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アートセンターは安藤忠雄の建築。

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ここで、展覧会が行われていた。

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展覧会では、ここには書けない出来事があった。

来てよかった。

1500円分のグッズを購入して、5月15日(日)のサイン会の整理券をもらったので、また来る。

 

その後、ワッフルを食べた。

「ワッフル・ケーキのお店 R.L.」

http://www.rl-waffle.co.jp/

 

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2011年4月22日 (金)

2011.4.21 USTREAM番組「津田大介×常見陽平×平川克美×高柳寛樹で語る、“労働、就職、就活”と」

動いてる津田さんをはじめて見た。イメージよりも落ち着いた方だなぁ。2時間以上あるので、時間があるときゆっくり見よう。

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2011年4月16日 (土)

2011.4.15 デマという他責、情報選択という自責

デマが話題になった。

それで、「デマを流すな」という人がいる。

ちょっと頭がどうかしていると思う。

 

デマとは何か。

それは、「真実とは違うこと」だ。

では、「真実とは違うこと」とは何か。

逆に言うと、「真実」とは何か。

いや、そもそも、「真実」なんてものがあるのか。

 

虹は、日本人にとっては7色だ。

しかし、他の国にとっては、そうではない。

つまり、「虹は7色だ」は真実だし、「虹は7色ではない」も真実だ。

同様に、「関西電力が節電しろと言っている」というのは、関西電力にとっては真実ではないが、「関西電力が節電しろと言っていると認識した人」にとっては真実だ。

 

そして、その人が関西電力でない以上その人から発せられる

「関西電力が節電しろと言っています」

というメッセージは、常に、

<私は、「関西電力が節電しろと言っています」 と言っています>

でしか、あり得ない。

 

しかし、これを、

<私ではなく、関西電力が、「節電しろ」 と言っています>

だと勘違いする人がいるのだ。

 

デマ情報なんかより、こちらのほうが問題だ。

情報を受ける側の能力の問題である。

単に、能力が不足しているのだ。

なのに、それを「デマを流したのが悪い」と他人のせいにしている。

 

一方で、僕のところにも4通ほどこのメールが来たので、関西電力のホームページを見ようとしたが、半日くらいは繋がらなかった。

アクセスが殺到していたためだ。

それだけ、その情報を正確に受け取った人もいた。

その情報は<メールの送り主からの情報>であって、<関西電力からの情報ではない>と知っている人がいた、ということである。

 

デマを流した人がそれをデマだと思っていない以上、それはその人にとって、デマではない。

(詐欺のように、最初から騙すつもりで、その人が真実だと思っていないことを言う場合は別だ)

そして、その人はデマだと思っていないのに、その人に対して「デマを流すな」と言っても、明らかに無意味だ。

(詐欺ははじめから騙すつもりなのだから、もっと無意味だ) 

  

「放射能は危険だ」と言っている人は正しい。

「放射能は安全だ」と言っている人も正しい。

これは矛盾しない。

なぜなら、主語は「放射能」ではなく、「人」なのだから。 

あとは、どちらの「人」を信じるかだけの問題だ。

そして、どちらを選ぶかは、自分で決めるしかない。

「デマが流れたからそれを信じた」のではなく「それを信じることを自分で選んだ」のだ。

 

 

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2011年4月14日 (木)

2011.4.12 進化と老化

mixiで、「年寄り」についてつぶやいたところ、いくつかコメントが来た。

あと、以前Twitterで、「年をとっているだけで偉いとか、若いだけで偉いとか思っているヤツがいる」みたいなツイートを見たことがある。

 

人の意見はともかくとして、僕は「人間は若いほど優れている」という思想を持っている。

僕より若い人には、もれなく敬意を払うし、絶対に敵わないと思っている。

 

一方で、僕より年上の場合は、人による。

または、人ではなく個別の事柄で判断する。

まぁ、それが普通だ。

単に若いだけで敬意を払う、というほうが異常だ。

 

なぜ若いというだけで優れているのか。

それを、「進化と老化」から説明したい。

例によって適当に書いているだけです。

あと、「若い」とか「年寄り」というのは単なる比較表現で、5歳でも3歳よりは年寄りです。

 

人はそのうち死ぬ。なぜ死ぬのか。この原因は(アクシデントを除けば)基本的に老化にある。では、なぜ老化するのか。

生物学的には、細胞分裂の回数が減るとか、細胞分裂のときにDNAのコピーが上手くいかず破損していくとか、たぶんそんな理由だ。

でも、それでは単に「老化の現象」を説明しているだけで、「なぜ、老化が生命に組み込まれているのか」は説明できない。

なぜ、老化するのか。

それは、進化するからではないか。

 

進化とは、「環境適応」のことだ。

なぜ環境に適応するかというと、適応できなければ死ぬからだ。

例えば、地球の気温が急に下がったりしたとき、人間の体毛がアザラシのように増えなかったら、死ぬ(毛布や暖房のことは忘れて下さい)。

暖かい場所に移動したら生きれるが、それも環境適応の一種である。

これがポイントだ。

たとえ老化しなくても、環境が変化し、それに対応できなければ、死ぬ。

つまり、「変化しないまま生きる」というのは、長期的な観点からはあり得ない。

 

人間は、長く生きると変化に対応できなくなる。

例えば海外で過ごすとき、若いときのほうが語学は身に付く。

年をとってから行くとなかなか身につかない。

一方、たとえ年寄りでも、完全に記憶喪失してから海外に行けば、その国の言語は身につくはずだ(知らんけどさ)。

つまり、過去を記憶していることが変化を妨げる。

過去の経験が役に立つのは、過去と同じ状況のときであって、環境が変化して過去と違う状況ならば、それが役に立つとは限らない。

 

地球の気温が冷えたときに生まれた子供は、冷えたときのことしか知らないから、その冷えた気温にあわせた適応をする。

一方で年寄りは、暖かいときのことを知っているので、そのうちまた暖かくなるのではないか、という希望を持つ。

これは正に、高度経済成長を知る世代と、デフレ経済しか知らない世代の違いと合致する。

 

他の動物と違って問題なのは、人間の場合、自ら環境を変えていることだ。

例えば、ずっとカセットテープでも別に良いはずだが、MD、MP3と、どんどん変わる。

この変化は、人間の「知的好奇心」、「できるだけ楽をしたいという欲求」、「工夫する知恵」、そして「飽きっぽさ=記憶力」が生み出しているのではないかと思う。

要は、脳の働きだ。

つまり、この変化は人間に独特な変化だ。

ツバメの巣は一向にハイテクにならないが、人間は、めまぐるしくテクノロジー=環境が変化する。

この変化は、歴史的に見て加速している。等速の変化ではなく、ずっとアクセルを踏みっぱなしの加速的な変化だ。

例えば、人間が生み出した乗物の年代と速度を並べてみてもいいし、コンピューターなどの処理能力の変遷を並べてみても良い。

 

加速する変化において、年寄りは圧倒的に不利だ。

mixiでの「僕は、僕より若い人よりも絶対的に時間が足りない」という僕のつぶやきに対して、

「若い人のほうが時間はあるが、年をとれば時間の使い方が上手くなるので、それは言い訳だ」という主旨のコメントを頂いた。

それは、「今のこの瞬間」を切り取ればその通りだ。

 

けれど、「今の50歳の人が20歳のとき」と、「今の20歳」では、どちらが時間を有効に使えるだろうか?

移動手段や情報通信手段の違いなどを一つ一つ挙げるまでもなく、明らかに「今の20歳」だ。

同様に、「今の50歳」と、「今の20歳が50歳になったとき」を比べれば、間違いなく、「今の20歳が50歳になったとき」のほうが時間を有効に使える(テクノロジーが進化しているので)。

つまり、「20歳のとき」で比べても「50歳のとき」で比べても、僕たちは「自分より若い人」に敵わない。

 

「今のこの瞬間」を切り取って、「自分は若い人にはまだまだ負けない」と思っている人は、あるいは正しい。

ただし、変化は加速していて、若い人ほど加速した変化に適応している。

つまり進化している。

若い人(=後で生まれた人間)ほど、速い。

そして、年寄り(=先に生まれた人間)はいつか絶対に追いつかれ、追い抜かれる。

それが、老化だ。

運が良ければ、追いつかれる前に死ねるかもしれない。

でも、そのとき、若い人はまだ走っているのだ。

そして、速い。

そのうち、僕が死んだその場所を、きっと踏み越えていくだろう。

 

それが、僕が若い人に敬意を表する理由である。

 

 

 

 

 

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2011年4月10日 (日)

2011.4.10 散髪・花見・カラオケ・ブックオフ、そして投票

たまには日記っぽいことを書いてみる。

朝は、まず散髪に行った。

「散髪」というと、「髪の毛を振り乱してどんどん抜けていっている様子」を連想されるかもしれないが、実際にはハサミで切って、落ちた髪の毛はちゃんと集められ、適正に廃棄されている。

つまり、「切髪」のほうが、状態としては近い。

 

次に、お嫁様と花見に行った。

残念ながら、桜にあまり興味がない。というか、花に全般的に興味がない。あまりに興味が無さ過ぎて、後輩から「花図鑑」なるものをプレゼントされたくらいである。

僕は学校のテストで70点以下なんてほとんどとったことがないが、小学校のときの花の名前を書くテストで30点しかとれなかった。ヒマワリとパンジーとチューリップくらいしかわからない。あとはせいぜい、アサガオとオオイヌノフグリくらいだ。ヒヤシンスはもうダメだ。カーネーションと彼岸花は、どっちがどっちかわからない。

まぁ、そんなわけで、桜の写真は、撮るのを忘れた(桜をバックに髪を切った自分の写真は撮ったが)。

 

次に、お嫁様とカラオケに行った。熱唱した。何を熱唱したかというと、大黒摩季とかである。 

 

その次に、ブックオフに行った。ここのところ、宅建のテキストと行動経済学の本を並行して読んでいて、ちょっと疲れるので、軽い本、またはマンガ、またはTVゲームを買いにいった。

ちなみにこの「軽い本」というのは最近ずっと読んでいる。具体的には、3月27日以降の『笑う英会話』『生協の白石さん』『ONE PIECE STRONG WORDS』などのことだ。

さらにちなみに、マンガで言えばここ1ヶ月以内では、『進撃の巨人』とか『おやすみプンプン』とか『東京の街に出てきました』とか『デッドマン・ワンダーランド』とかを読んだりしている。

マンガや雑誌までブログに書くと大変なので書いていない。月に10冊くらい、ブログに書いてない本や雑誌やマンガがある、と想像していただきたい。

で、今日買ったのはこれだ。

これは、人気のマンガだ。内容は良く知らないが、モテない男にモテキがやってきたとかそういう話だと思う。とりあえず1巻を購入。

※読後感想

面白い。もう完結しているので、最後まで買うことにする。

 

これは、全然知らないマンガだが、アグリッパというのは、古代ローマ時代の人物だ。塩野七生の『ローマ人の物語』でも登場する。で、中をパラパラ見たところ、やはり古代ローマを舞台にしたマンガで、かなり史実に忠実のようなので購入。たぶん、面白くないと思う。

※読後感想

こちらも予想に反して面白い。買い続けることにしよう。

  

これも良く知らないが、ドラゴンとかで敵をやっつけるっぽいゲームだ。ゲームはときおり買うが、最後までやりきることはほとんど無い。

というか、しばらくやらない日が続くと、何をやっていたのか忘れるのだ。そんな状況でゲームを再開しても、記憶喪失をした主人公みたいなものなのだが、「オレ、一体ここで何してたんだ?」と戸惑ったところで、ゲームの中では誰も答えてくれない。

毎日コンスタントに朝か夜にやり続ければ、最後までできるかもしれないが、そこまでしてやりたいわけではない。どちらかというと、頭のリフレッシュというか、アクティブなことをやりたいときにやる。

 

その後、お嫁様は靴下を買いに行くというので、僕だけ先に帰宅。

 

で、投票用紙を持って、近くの小学校に投票に行った。

誰に投票したかというと、「高齢者福祉に関わる方々の就労状況の向上」というのを政策に書いていた人だ。

個人的に、「高齢者福祉の向上」には興味がない。つまり、「老人にやさしい社会」は特に希望しない。

しかしながら、「<老人にやさしい若者>にやさしい社会」は必要だ。もうすぐ死ぬ人のことよりも、まだしばらく生きる人のことのほうが重要だからだ。

まぁ、「<老人にやさしい若者>にやさしい社会」が、「老人にやさしい社会」に結びつくことはあるだろう。

一方で、「老人にやさしい社会」(例えば、医療費の大きな補助など)は、将来的には若者の負担になりこそすれ、メリットは無い、と考えている。

 

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2011.4.10 「それが浮くこと」とは、「それ以外が落ちていること」である

昨日、出勤する電車の中で、ちょっとしたアイデアを思いついた。簡単に言うと、重力と浮力を利用して無限に発電するアイデアだ。

そのアイデアが本当だとスゴイので、本当に可能かどうかを早急に確かめたかった。某受験生のようにYahoo!知恵袋に投稿してみようとも考えたが、会員登録が必要だったのでやめた。

そこで、知り合いの京都大学出身の理系の方3人に質問したところ、そのうちの2人が話をして検討してくれたらしく、結論としては、ミッション・インポッシブルだった。

まぁ、おかしいな、とは思っていたのだ。ただ、どこがおかしいのかは分からなかった。理由を聞くと納得できたが、一人では思いつかなかっただろう。

これが文系と理系の決定的な差。または私立大と国立大の決定的な差。もしくは身長の差。勝ってるのは体重くらいである(絶賛ダイエット中)。

 

で、何が間違っていたかというと、浮力というのは、結局は重力なのだ。

浮いているように見えるが、それは「別のモノがその下に落ちて入り込んでいる」から浮いているだけで、「浮く力」が独立して存在しているのではない、ということ。

見かけに騙されてはいけない。

 

これを現代社会に例えると(これが文系の仕事だ)、東日本大震災の際に「寝ろ寝ろ」と言われた某官房長官が総理大臣候補に浮上したが、それは単にそれ以外がズブズブと落ちているから浮上しているように見えたと言える。

本当のリーダーは浮いている(他の人間に浮かされている)だけではだめで、決断やコントロールする力が必要なのだが、今のところ、そういった力は垣間見えない(まぁ、それは官房長官の仕事ではないからだが)。

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