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2011年5月 1日 (日)

オリジナル電子書籍 『天地創造』

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宇宙のはじまり。

僕と彼女が、この宇宙の全てだった。
僕達はぴったりと寄り添い、僕達以外には何も無かった。

僕達に名前はない。
なぜ、名前が必要だろうか。
僕以外の全ては彼女であり、
彼女以外の全ては、僕なのだから。
しかし、僕はあるとき、それを創ってしまったのだ。

ひとつの過ちからはじまる、「創造」の物語。

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2011.5.1 ソーシャルネットワークという「村社会」

SSK氏と会った。

まず、昼食にスペイン料理のValeへ。

http://www.vida-corp.com/v_index.html

西宮北口周辺では一押しである。 

 

昼食後、SSK氏が仕事の関係もあってショッピングモールに興味があるというので、西宮ガーデンズを案内。

SSK氏は、「百貨店ベースのショッピングモールは珍しい」と言っていた。

確かにそうかも。

西宮ガーデンズの空中庭園で話をした。

トピックのうちのひとつが、Twitter、Facebookなどのサービスについてだ。

これらのサービスは、「ネットワーク」という側面と「メディア」という側面がある。

まずは、「ネットワーク」のことを書く。

 

例えば、twitterをはじめたものの、何をやったらいいか分からないという人がいる。

また、mixiを始めたけど、mixi内の人間関係が面倒でやめる人もいる。

Facebookにいたっては、日本人には分かりにくいつくりだし、実名というのも馴染まない。

おそらく、それぞれ利用しているのは日本の20代で人口の20~30%程度、Facebookでは10%以下ではないか、という感じだ。

そういった状況で、果たしてソーシャルネットワークが世界を変えるだろうか、という疑問について話をした。

 

個人的には、変えると考えている。

ただし、一気に広まるという形ではなく、世代交代によってゆっくりと変わっていくと思う。

例えば、今でも、パソコンを触ったことがなくキーボードで文字入力ができない世代(僕が「世代」という場合、「そういう人が多い世代」という意味)というのはいる。

とはいえ、パソコンは社会を変えたし、現在ではパソコンが使えない人は明らかにマイノリティである。

ただ、パソコンの普及開始を1980年とすれば、こういう状況に至るまでに30年程度かかっている。パソコンが苦手な世代を今の70歳以上だとすると、当時は40歳だ。

 

これと同様に、今から30年後には、パソコンと同じ程度にインフラとしてソーシャルネットワークが普及していると考えることは、ごく自然である。

ソーシャルネットワークのメインの利用層が今の40歳以下だとすると、30年後には70歳になっているので、仮に利用率が80%程度だとしても、人口の半分以上である。

そのとき使っているのがTwitterか、Facebookか、それとも別の何か、かというのは、使っているパソコンがウィンドウズか、MACか、リナックスか、といった程度の些細な問題でしかない。

つまり、それらを合わせた「ソーシャルネットワーカー」が過半数になった時点で、「非ソーシャルネットワーカー」はマイノリティとなる。

 

ソーシャルネットワークで起こる事態の一つが、「ご近所付き合い」だ。

「村社会」と言っても良い。

「誰がどうした」とか、「あいつがこう言っていた」なんてことが、一瞬で広まる。

ソーシャルネットワークでは、伝えたい人だけに伝えるというわけにはいかない。

これは非常に面倒な事態だ。

「人から嫌われたくない」という人には向かないと思う。

一方で、キリスト教でいう「愛すべき隣人」は、ソーシャルネットワークによって距離を超越したことになる。

「身近な人」という概念が、変わっていくだろう。

 

旧来の「村社会」は、必然的に「村」を中心として構成される。

一方、場所という概念がほとんど無関係なソーシャルネットワークで形成されるコミュニティの中心は、2種類ある。

1つは、Twitterのフォロワー、Facebookのフレンド、mixiのマイミクなどのように、「人を中心としたコミュニティ」である。この場合、その人にとっては「自分がそのコミュニティの中心」だが、それと同時に「自分は無限にあるコミュニティの中心の1つ」でしかない。

もう一つは、Facebookのファンページ、mixiのコミュニティなどのように「トピックを中心としたコミュニティ」だ。これは、2ちゃんねる掲示板も含まれるだろう。

つまり、「自分」を確立しつつ、「興味あるトピックを持っている」ことが、ソーシャルネットワークのユーザーには不可欠であると言っても良い。

 

今、いろんなところで、「コミュニティ」という言葉を聞く。

特に「無縁社会」という言葉が広まっているが、これに対するもっともな批判として、以下のようなものがある。

「無縁社会を作ったのは、高度成長期を担った団塊以上の世代だ。彼らが、経済を優先してコミュニティを崩壊させた張本人である。それが、自分たちが年をとったとたん、無縁社会を嘆くなど、どうかしている」

実際のところ、今のソーシャルネットワークのユーザーは、この「無縁社会を作った人たち」のようにはなりたくない、そう思っているのだ、きっと。

 

 

 

 

 

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2011年5月 2日 (月)

2011.5.1 ソーシャルメディアという「井戸端会議」

ソーシャルメディアが既存のマスメディアを崩壊させるという話があるが、まぁ、どうでしょう、極端な話、どうでも良い。

とはいえ、ソーシャルメディアは、マスメディアにはない特徴をもっている。

 

まず最初に「マスメディアとは何か」という点を考えると、「そのメディアを見ている人がマス(たくさんいる)」、つまり「マスへのメディア(メディア to マス)」ということになる。

これを「メディアがマス(規模が大きい=価値や信頼性が高い)」、つまり「マスからのメディア(マス to 個人)」だと勘違いしている人がいる。

こういう人は、ソーシャルメディアには向いていないだろう。

 

一方、ソーシャルメディアは、「メディア to マス」でも「マス to 個人」でもない。

「個人 to 個人」のメディアである。

それが無数に集まっているので、全体として見れば「マス to マス」のメディアということになる。

しかしながら、我々は「自分自身がマスそのものであるという認識」は持ち得ない。

例えば、自分自身を「このCMを見ている日本人数百万人そのものである」とは思えない。

(「マスメディア」を「マス to 個人」と勘違いする理由はここにある)

つまり、認識できる単位、つまり個人単位で見た場合、ソーシャルメディアとは、発信する場合は「自分 to マス」であり、受け取る場合は、「マス to 自分」になる。

 

さて、「ネットの情報は信頼できない」という人がいる。そういう人は「マスメディアの情報は信頼できる」と考えているわけで、おめでとうございます。

とはいえ、「ネットの情報が信用できない」というのは正しい。

しかしそれは、別に「ネットだから」なのではなく、「個人を発信源にしているから」だ。

マスメディアはビッグビジネスなので、情報を発信する際、集団による多重のチェックが行われる。

これにより「間違っていることが明らかな情報」が事前にチェックされるという構造だ。

 

一方、ソーシャルメディアは、個人からの発信なので、それを信用するかしないかは「あなたがその人を信用するかしないか」という問題でしかない。

それが間違っていても、それは単にあなたがその人を信じただけで、その人が非難される筋合いはない。

一方、ソーシャルメディアでは「間違った情報を発信して広めるな」という指摘や意見も多く見られるが、ほとんどが感情的、イデオロギー的、または意見が分かれてしかるべきものであるように見受けられる。

客観的に間違ったことを発信してしまった場合(例えば「今の総理大臣はビートたけしです」とか)は、お詫びして訂正すればいいだけの話だと思う。この点はマスメディアと一緒だろう。

 

ソーシャルメディアの特殊な点は、双方向性にある。

リアルタイムで、いろんな人がいろんな意見を言う。

その意見が交わされる場所はTwitterであり、ユーストリームであり、mixi、つまり各種のプラットフォームだ。

それらは物理的には存在しなくても、確固とした「場所」である。

そして、そこで行われるやりとりでは、個人の顔が見える。

また、身近なちょっとしたことから社会的な問題までが同じレベルで取り上げられる。

まさに「井戸端会議」のようなものだ。

 

ソーシャルメディアからの情報を享受するには、少なくとも「井戸端」まで出かけなくてはならない。

つまり、プラットフォームの会員になり、定期的にアクセスする必要がある。 

また、「どこの井戸端」に行くか、というのも、重要な問題だ。

あなたが「どこの井戸端にいるのか」ということが、あなた自身をを表しているのだ。

 

 

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2011年5月 3日 (火)

Bookレビュー2011-28 堀江貴文『成金』

ホリエモンこと堀江貴文氏の小説第2作。

前作『拝金』から10年ほど遡った1990年代が舞台。

『拝金』で「オッサン」として登場する堀江建史が主人公として描かれる。

あとがきでも触れられているが、「成金」とは将棋の「歩から金になる」ことの意。

歩のようにひたすら前進していき(ベンチャー企業)、いつか金に成る(事業拡大や上場)という夢を持った起業家を描いた、生々しく泥臭いストーリー。

本作では、主人公も含めた3人の事業家がダークヒーロー的に描かれながらも、最後に真の黒幕が明かされ、それが前作『拝金』へとつながっていく。

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2011年5月 4日 (水)

マンガを熱く語る 2011-2 『るろうに剣心』(全22巻)

幕末に最強の剣豪として名を馳せた「人斬り抜刀斎(ひときり ばっとうさい)」は、時代が明治と変わると共に姿を消した。

抜刀斎は、「剣心」と名を変え、流浪の旅をしていた。そんな中、東京で1人の少女と出会う。

 

主人公である剣心は、明治になると同時に、不殺(ころさず)の誓いを立て、刃が逆についた「逆刃刀(さかばとう)」を携え、あてもなく旅をしていた。

これが、本書のタイトルが「るろうに=流浪人」たる所以である。

一方、この物語の第1話は、剣心が「流浪をやめ、東京に滞在しはじめた瞬間」を描いている。

そう、実は「るろうに剣心」とは、「るろうに」である剣心が、「自分の居場所」を見つける物語なのだ。

 

物語の途中、剣心は、過去に因縁のあるもう1人の人斬り「志々雄真(ししお まこと)」を倒すため、再び流浪人に戻り、東京を1人離れ、京都に向う。

ここで物語は大きな転換を向える。

剣心は、京都に向う途中、志々雄の部下にも勝てないほどの「弱さ」をさらけ出す。

その剣心が強さを取り戻すのは、東京から仲間が駆けつけたのとほぼ同時に「奥義」を会得したときだ。

これは偶然の一致ではなく、剣心が、仲間、つまり「守るべき人」なくして「奥義」を習得しえなかったことを示している。

 

本作では、この「守る強さ」と「倒す強さ」が大きく区別して描かれる。

それをもっとも象徴するのが、物語の終盤に描かれる、宿敵、斎藤一(さいとう はじめ)との決闘のシーンだろう。

「守る強さ」を極めた剣心と、「倒す強さ」を極めた斎藤一との物語なくして、本作は完結し得なかった。

 

最終的に、剣心は「守るべき人」と「守るべき場所」を手に入れた代償に「倒す強さ」を失う。

しかし、そこには「未来への希望」が溢れている。

 

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2011年5月 5日 (木)

2011.5.5 ブログにボタンを設置するため悪戦苦闘したわりに成果が出ずにヘコみ気味だがヘコむならお腹がヘコんで欲しい

朝から10時間近く、

Facebookやmixiや「はてなブックマーク」のボタンをブログに設置してみようと、

ご飯も食べず(コーヒーは2杯飲んだが)にぶっ続けで悪戦苦闘した挙句、

成果は、

コレ→ mixiチェック

 コレ シェア

の設置方法が分かっただけだった。

mixiのボタンは文字の右側に出せるのに、

facebookのボタンは文字の左側に出るのだ。

なんでだ。

 

 

mixiの「イイネ!」ボタンは、一度は設置できたのだけど、

なんか良く分からんができなくなった。

いや、設置はできるのだ

ホラ→

でもね、押すと、消えちゃうのよ。

お化けボタンだよ。

へい、ユー、試しに押してみなよ。

あと、Facebookの「イイネ!」ボタンも置けるよ。

コレだ

 

 

でも、ページごとにURLを入力してHTMLを生成しないといけなくて、

「そんな面倒なことしたくなぁい!」

と思って調べてたら、「wordspress」なる壁にぶち当たったのだ。

もうね、それは越えられない壁だったのだ。

お腹減ってるのだ。

 

「wordspress」を攻略したら、「はてなブックマーク」もいけそうなのだけど。

 

 

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2011年5月 6日 (金)

2011.5.6 異説 桃太郎 その5

参照:「2010.8.2 異説桃太郎 その1~4」

http://essere.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/82-aa6d.html

【異説 その5】

 

昔むかし、あるところに、

おじいさんと、おばあさんと、おバカさんがいました。

 

おじいさんは山へ、シバかれに、

(またか!)

おばあさんは川へ、宣託に、

(「まもなくこの川に流れてくる桃が、世界を救うであろう!」)

おバカさんは、間違って、桃の中に入ってしまいました。

 

残念ながら、おばあさんが川で拾った桃からは、

おバカな桃太郎が生まれたので、

いくらきび団子を作っても、自分で食べてしまうのでした。

 

お腹いっぱい!

 

おしまい。

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2011年5月 8日 (日)

2011.5.8 ブログ移転

※2011年12月24日改稿。

勢い余って、ブログを移転することにした。

ここで、これまでを振り返っておくことにする。

 

最初にインターネットに文章を書き始めたのは、大学生のとき、2005年のことだ。

当時はブログが全盛期だったが、無料ホームページでHTMLで手書きでタグを打っていた。ホームページビルダーとかも使わず、マジで手書きだ。

その理由はいくつかあるが、単に時系列に(しかも上下が逆に!)表示されるというのが気に食わなかった。

ひとつのテーマについて書き続けるというのは考えられなかったので、それぞれにページを作ってカテゴライズをしたかったのだ。

このころは実際のところ、文章を書くよりもホームページそのものを作るほうが楽しかった。

 

その後、就職をした。

とても働いていたので、インターネットに接続できなかった。プロバイダと事前に約束した日に在宅できない、ということが数回続き、半年かけても接続できなかったのであきらめたのだ。

 

のちに転職をして、時間があるのでブログを始めた。

それがこのessereである。

essereで目指したのは「どこに話題の中心があるのか不明で、一貫性がないブログ」だ。

なぜココログを選んだかというと、ブログを製本できるサービスがあったからだ。

当初、半年で1冊にしようと思っていたのだが、書きすぎて1冊8000円くらいの見積もりが来たので、やめた。

 

そんな中、昨年の秋にauから発売されたスマートフォン「IS03」について、間違って「ISO03」と表記したところ、僕と同様に「ISO03」と間違って検索した方々からのアクセスが殺到した。

なんと、googleで「ISO03」と検索するとこのブログが1位に出てくるのだ。

それ以降、かなり検索エンジンからのアクセスが増えてきた。

例えば、「堀江 原発」でも一位で表示される(本日現在)。

 

一方、津田大介氏の『Twittter社会論』を読んだことがきっかけで、Twitterをはじめた。

その後、スマートフォンを購入した際にアプリがあったので、mixiとFacebookもはじめた。

さらに、電子書籍を自分で作ってみたりもした。 

 

こうなると、ブログの意義も変わってくる。

ブログessereでは、僕を主体として発信がされていたが、それはTwitter、mixi、Facebookで可能になった。

もちろん文字数の制限があるのだが、長文であれば、電子書籍を作ればいいだけの話だ。

問題は日記だが、これはmixiの日記で書くことにする。

まぁ、今までもあまり日記っぽいことは書いていないし、これからもあまり書かないだろう。

 

一方、ブログの特徴は、アクセス・フリーであることだ。

そして、コメントが書き込めるなど、「場」としての機能を持っている。

 

そこで、数あるブログの中でもユーザーの交流性が高い「はてな」で、新しいブログを作ることにした。

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