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2011年3月 5日 (土)

2011.3.3 そうさ、未然に防げなかったのさ(ネットカンニングから考える その1)

マスコミの大騒ぎはどうでも良いのだけれど、この事件(そう、事件だ)は、いろいろ複雑な問題を含んでいるので、少しずつ考えてみたい(例によって今から考えるのだが)。

まずは、「未然に防げなかったのか」について考えたい。

今日、内田樹氏がTwitterでこれについて触れていた。

以下、引用。

あるテレビ局からカンニング事件について、京大の監督体制に不備があったのではないかという問題点についてのコメントを求められました。テレビに出ないので、インタビューはお断りしましたが、私の意見だけはメールに書きました。それを採録しておきます。

私は京大当局のやってきたことに手続き上の瑕疵はないと思います。ネット上ではずいぶんきびしい批判を浴びていますが、あれ以外にどうしたらよかったのか、大学の入試部長という立場から考えても、妙案は思いつきません。

被害届けを出して警察が動かなければ、ネット上の個人情報にはアクセスできません。個人が特定された段階で、被害届けを取り下げたら、警察は「事件性のない人捜しのために警察が利用された」ということでつよい不快を表明するでしょうし、場合によっては京大のふるまいが法律上の問題になる。

監督する側と出し抜く側の「いたちごっこ」ではつねにカンニングする側が先手を取ります。監督する側が「このようなカンニング行為があるかもしれない」と予測して手段を講じるということは、受験生を潜在的な犯罪者とみなすことです。それは教育機関としての本質に悖る。

京大がカンニング対策は「万全であった」とコメントしたことに「違和感を覚えた」とありますが、カンニング事件において大学は原理的に「必ず後手に回る」ことになります。また、「大学ではこのような対策を講じています」と情報開示することは「その隙を縫う方法」を教唆することになります。

ですから、カンニングがあった場合に、「監督者の側に不備があった」というのは構造的に自明のことであって、これに対して「備えが万全ではなかった」という非難をメディアが向けることには生産的な意味は何もないと私は思います。

というようなコメントをメールで書きました。大学の入試部長としては、カンニング事件があって、ただでさえ業務が激増し、寝る暇もなくなっている担当者に追い打ちをかけるような言葉はメディアには抑制して欲しいです。ほんとに。ひとごとじゃないんですから。

引用おわり。

さて、実は僕も「未然に防ぐ」ということについて、大学生だった2006年2月に当時作っていたホームページに書いていた。

以下、当時の僕の文章から引用(当時は「ですます調」)。

(マスコミの報道について)中でも特に「なぜ未然に防げなかったのか」というのは、いただけません。そもそも「未然」という概念自体が、「物事が起こること=事件」なくして発生しないわけで。

これは「未然」を「事前」に置き換えるとわかりやすいと思います。

「事前」→「事件」→「事後」という時間の流れがあるとして、「事件」が起きなければ
それは「事前」でも「事後」でもない、ただの時間です。

見方を変えると、「事前」という概念が発生したとき、つまり事件が起きたときまでは、「事件は未然に防がれていた」のです。

何が言いたいかというと、世の中には「未然」という概念が発生する以前から「未然」に防ごうという努力がなされている部分はいっぱいあるし、実際、いろんなことが「未然」に防がれているはずなのです。

ただ、それは防がれているがゆえに「未然」とは認知されない、気付かれないのです。

引用おわり。 

内田氏の文章で注目すべきは、<「監督者の側に不備があった」というのは構造的に自明である>という点だ。

一方、僕の文章は、<そもそも「未然」という概念自体が、「物事が起こること=事件」なくして発生しない>というのがテーマである。

つまり、マスコミの「未然に防ぐことはできなかったのか?」と問いに対する答えはこうだ。

「はい、防げませんでした。…ところで、未然って言葉の意味、知ってますか?」

 

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2011.3.4 そもそも入試ってなんなのさ(ネットカンニングから考える その2)

大学に入るために、入試というのがある。

何を隠そう、入学試験の略だ。

ところで、入試って、そもそも何のために、何を試験しているのだろうか?

これは、2通りの可能性がある(え? 可能性?)。

1つめは、「大学で学問をするだけの能力を有しているかどうか」の試験であるという可能性だ。例えば、運転免許の試験は「運転の能力」が問われている試験であり、こちらに属する。

一方、2つめは、「椅子とか机とか教職員の数が足りないので、入学者数を制限するためにやってます」という試験である可能性だ。限られた税金の中から給与が支払われる公務員の試験は、明らかにこちらに属する。

さて、入試の目的が前者であれば、入学定員なんて不要なはずである。運転免許で「合格者は年間1万人まで」とか決まっていないのと同様だ。その代わり、当然、正答率80%以上とか、合格基準が設けられているはずである。

ところが、今のところ、そういう大学は無い。

なので、実は入試というのは後者だ。

能力を試験しているのではないのだ。

人減らしのための手っ取り早い手段として入試をして、点数が低いほうを切り落とすという作戦である。まぁ、そのほうが、くじ引きよりも、落選した人の納得感は高いかもしれない。

だから、たとえ東大で学問を学ぶだけの能力を備えていても、不合格で入学できない場合もある。

これは、社会的な損失と言って良いと思う。

逆に、定員割をしている大学では、その大学で学問を学ぶだけの能力を備えていなくても、大学に入学できる。これが「名ばかり大学生」だ。

これも、社会的に問題になってきている。本来は、大学での学問には一定以上の能力が必要なはずだ。

ところで、ネットカンニングという「効率よく点数を得る」行為に対して、「効率よく人を削る」ための入試が、どれだけ正論を吐けるのだろうか。

 

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2011年3月 6日 (日)

2011.3.5 赤信号を無視して事故が起こったのは<赤信号が車を止めなかったから>ですか (ネットカンニングから考える その3)

テレビを見ないから良く知らないが、カンニングをした受験生が逮捕されたことについて、同情する意見が多いらしい。

まぁ、大学や警察側にとっては、そもそも逮捕が目的ではなくて犯人(そう、犯人だ)の特定が目的だった、という点が弱みだろう。

また、これまではカンニングしたとしても警察が逮捕なんてしなかったのに、なんで今回は逮捕するのか、今後もカンニングしたら警察に捕まるのか、といった疑問もある。

とはいえ、個人的には今回の件を活かして、「カンニングしたら警察に捕まりまるから、絶対にやめましょうね」と高校の先生あたりが言って聞かせるのが良いと思うし、実際にまたカンニングが起こったら(厳密には、カンニングが発覚したら)、また警察が捕まえればよいと思う。

カンニングしない限りにおいては、その処罰が逮捕だろうが死刑だろうが基本的には学生には無関係だ。

また、カンニング防止の体制についての批判があるらしいが、はっきり言って、本来は「カンニングは禁止します」と言うだけで防止対策としては十分なはずだ。

基本的に、社会はそれで回っている。

例えば、信号だってそうだ。

交通事故で、「赤信号だったのに車が信号無視をして突っ込んできたのは、<赤信号が車を止めなかったからだ>」と言う人はいないだろう。

ならば、「カンニングが起きたのは、<試験官がカンニングを発見して止めなかったからだ>」というのは、同じくらい的外れだ。

そもそも、「ルール」とは「決まりごと」であって、「完全に防止する対策のこと」ではない。

サッカーで手を使ったらルール違反だが、反則を覚悟で(こっそりと)手を使うことはできる。完全に防止したかったら腕を切り落とすしかないが、そんなことをしたらサッカー選手は世界から消えてしまうだろう。

つまり、問題は防止することではなく、「起こって(発覚して)からのペナルティがどういうものになっているか」である。

サッカーで手を使ったのが発覚したら、そこでプレイは中断し、相手のボールになる。すると、せっかく手を使っても台無しだ。

赤信号を無視したのが発覚したら、免許の減点と、罰金が科せられる。ならば、数分くらい止まって待とうではないか。

このように、「そんなリスクを背負うんだったら、やっても仕方が無い」というようなペナルティを課すことが重要だ。

つまり、リスクとリターンの天秤で、リスクを大きくすれば良いのだ。

ところが、上位大学に入学することによるリターンは非常に大きい。

ひょっとしたら、そこに入学できるかどうかで、生涯賃金が1億円くらい変わってくるかもしれない。

年収600万円と350万円の生涯賃金の差に相当するので、十分にあり得る話だ。

ということは、そのリターン以上のリスクを課す必要がある。

つまり、最低でも罰金1億円だが、実際には高額すぎて払えないだろう。

であれば、刑事罰というのは、あながち的外れではない。

とはいえ、重要なのは刑事罰を実際に科すことではなく、「刑事罰(またはそれに相当するリスク)を含めてルールとして周知させる」ことなのは言うまでもない。

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2011年3月 8日 (火)

2011.3.7 ってゆーか、入試なんかやめたらどうですか (ネットカンニングから考える その4)

入学試験というのがある。

何を隠そう、入学するために受ける試験である。

え?

そんなの常識?

じゃあ、なんで入学するために試験を受けないといけないのか、5文字以内で答えなさい。

ほら、無理でしょう?

え?

5文字は少なすぎる?

甘えるな!!!!

 

…えっと、結論から言うと、入学試験なんかあるから、入学することが目的化するのである。

入試をやめて、誰でも入学できるなら、入学することは目的にはならない(カンニングは入学が目的化した典型的な例だ)。

入試をやめれば、もう少し先を見据えて大学を選ぶはずだ。

 

就職も、入社試験なんかするから、入社が目的化してしまう。

でも、入社試験は仕方が無い。

だって、会社が払える給料には限界がある。

そもそも会社は、自分の給料以上に稼ぐ人を雇いたい。

というか、自分の給料以上に稼げないヤツは要らない。

だから、それを見極めるために、入社試験をするのである。

 

一方、大学、というか、学校というのは、まぁ、教室のスペースとか教職員の人数という問題はあるものの、お金を払うのは学生であって、学校ではない。

だから、学生がいくら入学したって、基本的にウェルカムなはずだ。

むしろ入学金や授業料でウハウハだ。

だから、入学試験で入学者を減らすなんてことは、やめてしまってはどうか、と思うのだ。

 

入学試験をやめるとどうなるだろうか。

まず、入学する学生の学力の差が広がる。

しかし、大学から卒業する時点では高いレベルの学生を社会に輩出しないと、大学としての評価は落ちる。

だから、学内の学問や学生体験のレベルは、一定以上に高く保つ必要がある。

そのため、学力が低い学生には、かなりキツイ。

当然、卒業するのもキツイ。

そうなると、途中でギブアップするかもしれないが、それだと学費がムダになる。

そこで、頑張って勉強して付いていこうとする。

まぁ、どっちみち勉強するわけだ。

当然ながら、安易に単位なんか取らせてはだめだ。

繰り返しになるが、卒業時に相応のレベルに達していないと、大学の評価が落ちるからだ。

そうすると、大学は大きく3種類に分かれるだろう。

 

1つめは、ハイレベル大学だ。

誰でも入学できるが、卒業は一部の学生しかできない。

入学には、度胸と覚悟が必要だ。

ダンサーになるために、アメリカに行くようなものだ。

行くだけなら誰でもできるが、ダンサーになれるとは限らない。

当然、そこの学生はめちゃくちゃ鍛えられ、社会からの評価も高い。

1年で辞めたら単なる根性なしだが、5年も6年もそこで勉強していたら、きっと中退でも一定レベルには達しているだろう。

 

2つめは、専門性やオリジナリティのある大学だ。

専門学校と同じではないかと思うかもしれないが、大学と専門学校は本質的に異なる。

専門学校は技能を「身に付ける」学校だが、大学はあくまで「探求をする」場所だ。

ということで、興味がある分野、得意な分野に特化して学びたい、探求したい学生は、このカテゴリの大学を選べばよい。

 

3つめは、低レベル大学だ。

誰でも入学でき、誰でも卒業できる。

当然、卒業時に社会が求めるレベルに達しないので、社会からの評価は低い。

実は、日本の大学のうち、下半分のレベルの大学は、この状況に陥っている。

大卒の就職率が低いのも、ここに原因の一部がある。

それなのに、このカテゴリの大学がたくさん存在している(大学経営が成り立っている)のは「入試に合格できず、行きたい大学に行けなかった学生」がここに入学するからだ。

つまり、行きたくて行っているわけではないことが多いと思われる。

 

ならば、もう入試なんかやめて、行きたい大学に入学して、入学してから頑張って勉強して、5年でも6年でもかけて勉強して、社会から評価される学生になって、それから卒業すれば良いではないか。

そうすれば、3つめのカテゴリの大学に行く学生は激減して、その大学は経営難に陥るから、倒産するか、1つめか2つめのカテゴリに方針転換することになる。

そうやって、「誰でも入れて誰でも卒業できる大学」は、日本からなくなりました、とさ。

 

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2011年3月10日 (木)

Bookレビュー2011-11 松村太郎『スマートフォン新時代』

携帯電話の進化をi-mode時代から解説すると同時に、スマートフォン時代の可能性について言及した本。

アメリカから端を発したスマートフォンのウェブブラウジングの機能は、「ガラパゴス的」と揶揄される日本の携帯電話が5年ほど前から導入していたものに過ぎず、今後も日本が独自に開発してきた「赤外線通信」「おサイフケータイ」なども、今後、世界的に導入されていく可能性について言及している。

また、スマートフォンと同時に広まった「ソーシャル・メディア」は、これまでの「いつでも」「どこでも」「だれとでも」というインターネットから、「いまだけ」「ここだけ」「あなただけ」というインターネットへの進化であると指摘する。この点については『シェア』(NHK出版)でも指摘されており、ネットから始まる「社会ののローカル化」(ただし、物理的な距離や時間は超越したローカル)の潮流を感じさせる。

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2011年3月14日 (月)

2011.3.13 バーチャル被災者にならないために積極的に日常を取り戻すということ

関東方面の地震に関連してmixiで意見をいただいたりしているけれど、気をつけたいのは、雰囲気に飲まれないことだと思っている。

特に原子力発電所については、新聞の見出しやテレビの司会の煽りっぷりと、専門家の慎重さ、冷静さには大きなギャップを感じる。

爆発とか、メルトダウンとか、放射能が通常の何倍とか、被爆という文字が躍っているけれど、人体に影響がなかったり、洗浄で解決したりしているので、きちんと内容を確認したい。

僕は広島出身なので、原子力爆弾については小さい頃から教育されてきた。そのせいで、ある程度、冷静になれている面はあるかもしれない。

広島の原爆で言えば、僕の実家は爆心地から半径8km以内くらい(googleマップで調べた)だが、祖父母は被爆していない。避難範囲の20kmという数字も、そういう観点から捉えたほうがよいかもしれない(原子力発電所が原爆より放射能を撒き散らすというのなら別だが)。

また、Twitterで、「現地支援に行く方は、そこで肉体的・精神的に災害の影響を受けるのだから、ある意味では、その方も被災者になる」という主旨の文章を見かけた(事実を言っているだけで、支援を批判した文章ではない)。

これは本当にその通りだと思う。

さらに、テレビやネットで情報を得て、「何かできることはないか」「何もできない自分がくやしい」と言った意見も多い。

「関西電力の友人が節電しろと言っています。協力してください」という、間違った情報がこれだけ広がったのも、そのせいだと思う。

こういう、テレビやネットの影響を受けて精神的なダメージを負ったり、非日常状態になってしまった人も、ある意味では被災者だ。「バーチャル被災者」というべきだろうか。

僕は、こういった人が増えるのは望ましいとは思っていない。

もし、安否情報を必要としていたり、仕事で復旧情報を必要としているのでなければ、テレビやネットを見るのを辞めるのも手だ。

できる限り積極的に、日常に自分を戻すべきだと思う。

それを不謹慎だと批判する人は、自分が「バーチャル被災者を増やす加害者」になっていないか、確かめてからにしたほうが良いと思う。

 

 

 

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2011年3月15日 (火)

2011.3.15 これまで通り、原子力発電を利用する勇気

現時点でも、原子力発電所のリアルタイムな状況については次々と報じられているが、もう長期的な展望はほとんど定まったと考えて良いと思う。

つまり、今回の地震による原子力発電所の破損(事故ではない)が直接の原因で人が死ぬことはない(なぜなら、地震と同時に爆発しなかったからだ)。

それに、大量の放射性物質が広範囲に飛散し、人体に甚大な影響を与えることもない。

もちろん、これらの被害が発生しなかったのは、数十年前に強固な原発を作った人々、そして現在も保守を行っている人々のおかげだ。

 

一方で、今回の原子力発電所の破損で起こると僕が考えることは以下の通りだ。

1.原子力発電への日本人の疑心暗鬼(これはマスコミによりすでに誘導されている)

2.「1.」による原子力発電所の操業停止などによる発電方法のシフト

3.「2.」による発電コスト(つまり電気代)の上昇(発電は原子力が一番安い)

4.「3.」による生活費用・生産コストの上昇、または経済活動の停滞

 

※ここまでの段階でマズさに気付いて、ストップがかかれば問題はない。問題はここからだ。

 

5.「4.」による国際競争力の低下(特に輸出産業)

6.「4.」「5.」による失業率の増加

7.「6.」による自殺率の増加、財政難、社会保障の不足。

 

今のところ、上記のような状況を防ぐ唯一の方法は、これからも(少なくとも当面は)原子力発電を今までと同じように利用することだ。

つまり、今回の件を「人災」でなく「天災」と捉えることが必要だ。

そういった理由から、僕は破損が報道された当初から、Twitterで原子力発電破損について、あえて極論を書いてきた。以下、引用。

今回の地震で、原子力発電所は限りなく安全に近いことが証明されたと思う。少なくとも沿岸部や崖や石油コンビナートより(短期的には)安全ということ。

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2011年3月17日 (木)

2011.3.17 震災による新卒採用への影響について

今回の関東方面の震災が、新卒採用にどう影響するか、考えてみたい。

ここでは、客観的に考えていくので、就活生の役に立つかどうかは考慮しない。

もしあなたが就活生で、役立つ記事を探しているならば、これを読むと良いと思う。

 

【ダイヤモンド・オンライン 石渡嶺司氏の連載記事】

http://diamond.jp/articles/-/11495

 

さて、まず、確定的なことから書くと、東京本社の企業は、本社で採用活動を行える状況にない。これは、交通や電力供給などがあまりにも不安定すぎるからだ。

ただし、採用拠点を他の地域に移して採用活動が行われる可能性について、とある方から指摘いただいた。これはあり得ると思う。

また、被災エリア外の企業、とくに中部以西ならば、採用活動自体に大きな影響はない。

とはいえ、東京に本社を構える大企業のおこぼれに預かるのが、地方企業や中小企業のこれまでの採用スタイルだ。大企業の採用が停止している中、そういった企業が先に内定を出すことができるのか、また、内定を出したところでどれだけが実際に入社するのかが非常に不透明だと思う。

 

また、今回の震災による損失の影響で、採用戦略自体が見直される可能性もある。

直接、震災のダメージを被った企業はもちろんだが、ほとんどの企業にとって、経済的な展望は暗い。

そのため、採用数が大幅に減少する可能性が高い。

(もっとも、予定通りに内定を出しておいて、あとで内定切りで調整するよりはマシだ)

よって、採用数を練り直すところから始めるならば、夏休み、またはいわゆる秋採用の時期が、メインの採用活動時期になる可能性もある。

つまり、学生にとってはかなり長期化することで、精神的・金銭的な負担が大きくなり、卒論などにも影響するだろう。

 

さらに、採用数が絞り込まれるということは、就職率の低下を意味する。

リーマンショック以降、就職率が低下しつづけ、60%程度の水準だった。

2010年3月に卒業した55万人の大学生のうち、約8万人が就職も進学もしていない。

2011年、つまりこの3月に卒業する学生も同程度、もしくはより悪い状況だと思われる。

しかも、ここに現れていない数字として、景気回復による採用拡大や再チャレンジの成功を期待して、就職留年したり大学院に進学した人、卒業後も就職活動を続けている人が大勢いる。

さらに、政府の卒業後3年を新卒扱いとする動きがあり、すでに3年以内を新卒扱いとすることを表明した企業も多数ある。

以上のような状況から、本来は50万人程度のはずの新卒(扱い)就活生が、70~80万人程度まで膨れ上がっている可能性がある。

一方、企業に採用される人数は、2010年度で33万人程度だった。

これが、今回の震災でどれくらい減少するかは不透明だが、仮に28万人とすると、純粋な卒業数ベースでも就職率は50%を割り込む可能性がある(留年などで卒業生が増えているため)。

また、長期的な展望としては、原子力発電の輸出や、国内稼動がほとんど絶望的な状況にある。

もし、全国的に原子力発電を操業停止にするようなことになれば、省エネルギーを余儀なくされるため、経済活動は停滞する。

また、発電源を天然資源にシフトすることで、資源価格の高騰や、電力コストの高騰を招く(これは日本だけに限らないが)。

以上のように、長期的な雇用の展望は極めて厳しい。

 

よって、僕が今の就活生に提言するとすれば、下記の2つだ。

 

【1.ひたすら応募し、内定が出たところで働く】

就職留年や、3年間のチャレンジなど考えている場合ではない。状況はどんどん悪化していく。

 

【2.海外の新興国で働く】

例えばブラジルなどだ。幸い、新興国は物価が安いので、日本円をある程度持って行けば、暮らしには困らないと思う。

 

ちなみに、起業するという手もなくはないが、積極的な起業ならともかく、ひたすら応募してどこからも内定がもらえなかった人が、最後の手段として起業しても、上手くいく可能性は極めて低い。

 

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2011年3月18日 (金)

2011.3.18 椎名慶治 「声」

歌詞はオフィシャルサイトへ

http://ameblo.jp/yoshiharushiina/day-20110317.html

 

震災直後から作曲に取り組まれたのだと思う。

感謝。

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2011年3月20日 (日)

Bookレビュー2011-12 吉岡斉『原発と日本の未来』

2011年2月発行の岩波ブックレット。

今後、刊行される書籍・雑誌はヒステリックにならざるを得ないが、この書籍は震災前の刊行なので、その点で安心して読める上、震災以前の原発論しては最新(級)である。

ページも非常に少なく、内容も平易である。

また、「反原発」の著書が多い中、「脱原発」(もう造ったものは仕方がないから、新しい原発を作らないことで、老朽化による使用終了によって時間をかけて原発脱却すること)に近い意見であるため、極端な内容の偏りもない。

さらに、原子力発電所を保有・研究していることが、日本が核関連技術を保有・研究する唯一の根拠であり、その放棄は、安全保障や日米関係に影響するなどとしている。

一方、原子力発電は、「国策民営」事業であり、その癒着構造を批判している。

そして、原発建設を、今後は完全に市場原理に委ね、電力会社が独立して行うべきだとしている。ここは意見の分かれるところだろう。

もちろん、著者は原発のリスク・コストを考えれば、これ以上、電力会社が推進することはないという立場なのだ が。

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Bookレビュー2011-13 POSSE Vol.9『特集-もう、逃げ出せない ブラック企業』

「ブラック企業」という言葉は、インターネットの中では10年近く前から使われていたが、ここ数年で大きく認知されてきた。

特に、労働法から逸脱した雇用に関しては、大きな問題である。

また、ブラック企業に入ってしまうと、心身的に体調を崩したり、友人が減ったり(販売ノルマによる購入強要や、長時間労働による交流時間の減少)、という問題がある。

ただ、気をつけたいのは、何でもかんでも「ブラック」と決め付けないことだ。

かくいう僕も、新卒で入社した会社では月に2日くらいしか休まなかったし、朝7時くらいから深夜5時くらいまでの中での不規則な仕事をしていて、月間での労働時間は300時間を越え(ちなみに、週休2日で9時間労働だと175時間である)、賞与を除いた月給総額を時給換算すると750円くらい、手取りでは時給600円を切っていた。それが、店長職の待遇である。

とはいえ、2年間で「週休2日9時間労働」の2倍近い時間を仕事に費やしたということは、4年くらいの業務経験を積んだと考えて良い。これは、実際のところ役に立っている。

また、働く時間が長いとお金を使える時間がほとんどない。つまり、労働時間に比べて給与が低くても、さほど問題はなかった。初任給20万円だったので大卒としては普通だ。単に、サービス残業の労働時間が長すぎただけである。

ちなみに僕はサービス残業に対しては否定的ではない。むしろ「ゆっくり仕事をしたほうが給与が高くなる」という仕組みは合理的ではないという考えだ。

つまり、残業代というのは、ベルトコンベアーで運ばれる商品の検品のような仕事では有効だが、労働時間と成果(利益の創出)がほとんど無関係な場合は、適切ではないだろう。

店舗運営も、営業時間と来客数は基本的に比例する(もちろん時間や曜日でその数は異なる)ため、残業代は支払うべきかもしれない。とはいえ、店舗運営の人件費の大部分を占めているアルバイトの給与は時給制であり、つまり残業した分の給与は既に支払われている状態である。

実は、店舗運営者の過大な労働時間は、アルバイトに残業させると残業代を払わないといけないが、それだと経営が保たないので、残業させずに退勤させていて、そのしわ寄せが運営者に来ている、という側面が大きい。

つまり、社員のサービス残業を減らすということは、その手段が「社員の労働時間短縮とアルバイトの労働と支払い給与の増加」であれ「社員の残業代の満額支払い」であれ、どちらにせよ経営の崩壊を意味する。

その結果、生まれるのは失業という最悪の労働問題であるというのは皮肉だ。

そういった複合的な要因が、この問題にはある。

もちろん、利益を経営者や株主が不当に得ている場合は、糾弾されてしかるべきだろう。

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Bookレビュー2011-14 POSSE Vol.10『特集-<シューカツ>は、終わらない?』

新卒採用をテーマにした特集。

今の「新卒採用論者」の著書とその主張がまとまっており、とても分かりやすい。

また、就活論の多くは、一部の優秀な学生(これは学生全体の5%程度という評価が根強い)だけにスポットが当たっていて、それ以外の95%をどうするかという建設的な話がされている。

また、教育に労働法を取り込むという提言がされており、賛成である。労働法以外にも、民法、会社法、著作権法などの、生活に深く根付いた法律の基礎部分は、ケースで分かりやすくして、高校の授業などに盛り込むべきだと思う。

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2011.3.20 「製品という生態系は、自身を維持するために労働者を栄養分として消費する」という思想

「Posse Vol.10」の中で、マルクスについて論じられているコラムがあったので読んだ。

実は、マルクスは今まで敬遠していて、関連書籍も読んだことがない。

どうも、「マルクスの思想」と「マルクス主義」というのは違うらしいし、まぁ、ちょっと外堀を埋めてからでないといけないなぁ、という理由と、僕自身がマルクス思想、またはマルクス主義者になってしまう予感があるからだったりする。それを僕自身が危険だと判断しているわけだ(良く知らないが、雰囲気で)。

まぁ、でも、コラムが載ってたから読んでみたのだ。

さて、このコラムで特に興味深かったのが、「製品という生態系は、自身を維持するために労働者を栄養分として消費する」という思想だ。

つまり、労働者によって製品が生産され消費されるのではなく、製品が、労働者を生み出し消費するのである。

また、資本主義社会では、労働者が労働条件を使用するのではなく、労働条件が労働者を使用する、とも述べている。

なるほど、本質を突きすぎている。

こんな状況に陥っている生物は、地球上に人間しかいないだろう。

例えばツバメは、「ツバメの巣を維持するためにツバメが消費されている」のではなく「ツバメを維持するためにツバメ巣を生産している」のは明らかだ。

マルクスの資本主義批判とは、こんな根底について指摘していたのか、と思った。

やっぱり危険だなぁ(笑)

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Bookレビュー2011-15 有川浩『阪急電車』

今年の4月に映画化される、有川浩の小説。

関西の私鉄である阪急電鉄の西宮北口-宝塚を舞台に、乗車した人々のそれぞれのストーリーが綴られる。

本来は別々の人生を歩む人々が同じ空間を共有する電車という場面ならではの、とても日常でとても特別なお話。

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2011年3月21日 (月)

2011.3.20 政令指定都市の自家用車を禁止したらどうなりますか

mixiで、「自動車は殺人マシンだ」とか書いたので、若干の労力を使って調べてみた。

僕の主張は「都市部の自家用車走行は禁止」である。

都市部以外と、営業車はオッケーだ。

都市部ってどこかと問われると辛いので問わないで欲しいが、まぁ、「政令指定都市」でどうですか?

営業者がオッケーなのは、「モノ」は自分で動けないので運ぶしかないが、「ヒト」は自分で動けるんだから動け、という理由だ。

ちなみに、参考資料は下記の3つだ。

 

【資料A】http://www.sonpo.or.jp/protection/research/traffic/pdf/index/bko_bunseki003.pdf

【資料B】http://www.mlit.go.jp/jidosha/iinkai/seibi/5th/5-2.pdf

【資料C】http://www.npa.go.jp/toukei/kouki/0102_H21dead.pdf

以下、AとかBとか言うときは、資料を指しています。

 

さて、まず、交通事故による年間死者数は4000人、事故件数は120万件だ。

「Cの4ページ」によると、都道府県別の死者は東京、大阪、愛知がベスト5にランクインし、3都府県で事故による死者は600人を越え約15%を占める。一方、人口は3都府県で日本人口の20%を超えるので、人口と比較すれば都市部で死者の割合が多いわけではない。とはいえ、ここで問題なのは死者の絶対数であって比率ではない。というのも、事故で死ぬ人数を減らそうとしているのであって、事故で死ぬ割合を減らそうというわけではないからだ。

次に、自家用車と営業者との違いを見てみる。

「Aの5ページ」に各種類の保有台数と1万台あたりの事故数データがある。

これを見ると営業者の「1万台あたり被害者数」が非常に多い。とはいえ、営業者は走行している距離・時間が長い(「「Bの2ページ」を参照)。

そこで、「Aの5ページ」には、こう書いてある。

走行距離1 億キロ当たりの被害者数においても、最も値が高いのは営業用乗用車(226 人)であるが、次いで自家用乗用車(172 人)、軽四輪車(149 人)、営業用バス(149 人)の順となる。

(『「自動車保険データにみる交通事故の実態」分析シリーズVol.3』 社団法人日本損害保険協会業務企画部安全技術グループ より)

つまり、やはり営業車は事故が多い。取引先とのアポイントメントがあったりして、慌てているドライバーが多いかもしれない。営業車を見かけたら気をつけたほうが良いだろう。

では、この順番で、規制していくべきだろうか?

そうではない。

ここでも、問題なのは「1万台あたり被害者数」「走行距離1億キロ当たり被害者数」などの「割合」ではなく、その「絶対数」だ。

つまり、「Aの5ページ」の資料を見れば分かるように、「120万4475件の事故」のうち8割を占める「自家用車+軽四輪車の94万882件」を規制することが、事故の絶対数を減らすのに有効である。

仮に営業車(トラック含む)を全て規制しても、10万件も減らない。

そして、すでに述べたように交通事故の死者のうち15%は東京・大阪・愛知なのだから、この「自家用車+軽四輪車の94万882件の事故」の15%が上記3都府県で起こっていると仮定すれば、この3都府県での自家用車+軽四輪車の事故数は14万1132件と仮定できる。

この3都府県の自家用車+軽四輪車の走行を全面禁止にすることで、年間14万件の自家用車+軽四輪車の事故はゼロ件になり、年間600人の事故死も解消される(もちろん営業者やトラックやバスの事故で死ぬ人はいるが)。

さて、僕のアイデアは3都府県ではなく、政令指定都市なわけだが、それは、大阪や愛知にも不便なところがあるからである。何事にもメリット・デメリットがあって、そのバランスが重要だ。政令指定都市なら、大阪や愛知のスミッコよりは、公共交通が発達している。

そこで、3都府県と政令指定都市の人口を比べてみる。

3都府県(東京・大阪・愛知)の合計人口=約1800万人

政令指定都市の合計人口=約2600万人

上記のように、政令指定都市の人口のほうが、3都府県の合計よりも、800万人、45%ほど多い。

ここで、人口と事故数・事故死者数が比例すると仮定しよう。

すると、政令指定都市の自家用車を禁止すれば、計算上では、年間約20万件の事故がなくなり、870人の事故死がなくなる。

これにより、警察・道路整備や修復・病院・裁判所の仕事が減るので財政的にはプラスに働くが、自動車税による収入は減る。

また、公共交通機関の収益が向上するので、投資により結果的に利便性も向上すると同時に省エネルギーとなる。

一方、当然ながら、自動車産業は甚大な影響を受ける。

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2011年3月23日 (水)

2011.3.23 カマンベールフォンデュ

イタリアのクロスティーニというクラッカー。

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レンジで90秒チンしたカマンベールでフォンデュして食べた。

うーん、ハイカロリー。

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Bookレビュー2011-16 西村賢太『苦役列車』

中卒で港の倉庫で働きながらその日暮らしをする貫多。

そんあ貫多の職場に、ある日、同い年の青年が現れ、貫田の生活は、明るい兆しを見せる。

いわゆるワーキングプアとも、ニートとも、ホームレスとも違う、けれど確実にそこにある生活を、独特の文体で、生々しく描いた私小説。

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2011年3月24日 (木)

2011.3.24 マイノリティ化する東京

読んだ方の反発は必至だが、揺るぎない所感として書く。

それは、震災以降、東京がマイノリティ化しているということだ。

マイノリティ化とは、どういうことか。

 

早ければ江戸時代、遅くとも明治時代以降、東京は常に日本の政治的・経済的・文化的な中心であり、全てが東京から発信された。

地方から生まれたものはあっても、それすら東京を通して全国に広がった。

東京がイエスと言えば日本全体がイエスと言うのが、これまでの日本だった。

つまり、人口は日本の過半数に満たなくても、そこから発せられる情報は、圧倒的なマジョリティだったのである。

 

このフローが、震災以降、明らかに崩れてきている。

 

阪神・淡路大震災や新潟中越沖地震と大きく違うのは、東京が被災したということだ。

つまり、東京自身が被災者として情報を発信している。

東京からの情報で、被災地への励ましではなく、「一緒に乗り越えよう」というメッセージが強調される理由が、ここにある。

こういったメッセージが、東京に拠点を構える「マス」メディアによって、全国に発信される。

まるで、日本全体が被災者であるかのように。

 

ところが、被災者という立場は、日本全体からすればマイノリティなのだ。

マジョリティとして発信されるからこその「マス」メディアであって、マイノリティは「マス」メディアとはなり得ない。

それゆえ、残念ながら、東京からの情報発信は、被災地でないほとんどの日本地域に対して共感を与えられていないように見受けられる。

例えば、「買占めはやめよう」と全国に呼びかけたところで、もともと、大部分の日本では買占めなど起こっていないのだ。

この違和感は、関西にいて強く感じる。

こんなことは、明治以降、一度もなかったはずだ。

 

さらに東京のマイノリティ化に追い討ちをかけているのが、ソーシャルメディアだ。

中央集権型のマスメディアとは違い、個々のつながりから形成されるソーシャルメディアは、東京のような情報発信の中心が存在しない。

それゆえ、そこでなされているコミュニケーションの「大部分」は、「大部分であるがゆえに必然的に」、マジョリティとマジョリティのコミュニケーションである。

つまり、「マス」なコミュニケーションが、ソーシャルメディアで形成されているのである。

 

この東京のマイノリティ化は、基本的にどうにかできるものではない。

とはいえ、マイノリティである自覚は必要だろう。

自粛ムードを煽り、スポーツなどのイベントを中止し、みんなで手を取り合って苦難を乗り越えることを強要するムードが、果たして日本全体で共通しているのか、ということには注意すべきかもしれない。

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2011年3月27日 (日)

Bookレビュー2011-17 草下シンヤ『笑う英会話』

"Simon's presence is not felt strongly."

「サイモンは影が薄い」

といったような、ちょっと笑える英文を、悲壮感溢れるイラストと一緒に、140種類も紹介している。

しかも、全て、実際に参考書などに掲載されていた例文だそうだ。

そのため、ちょっとした文法や慣用句、熟語を絡めた例文が多いので、楽しみながら英語を復讐するのにもオススメ。

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2011.3.27 堀江氏が「原発はまだ誰も殺していないが車は毎年何千人も殺してる」と書いたら大炎上したのはなぜですか

以前、僕がmixiのつぶやきで書いたこととほぼ同じ内容を、堀江氏がTwitterで書いて大炎上していた。

 

ホリエモン

まだ今回の原発放射性物質漏れ事故で死者いないのにこれだけ批判されるが、毎年数千人の死者を生み出してる自動車が批判されないのはなぜ?そしてほとんど誰も自動車反対運動をしないのはなぜ?安全対策は技術的にはもっと進められるのになぜしない?全てはトレードオフなんだよ。」

参照:【痛いニュース】

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1610103.html

 

一方、僕は政令指定都市での自家用車を禁止したらどうなるかを、数日前に考えてみたところだった。これを書いたのは、堀江氏と同じく、原発がこれだけ騒がれているのに、毎年4000人も殺している自動車は批判されないのはなぜか、という問題意識からである。

参照:【essere-2011.3.20 政令指定都市の自家用車を禁止したらどうなりますか】

http://essere.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/2011320-40c0.html

 

さて、どうも、「痛いニュース」のコメントを見る限り、原発で放射能が漏れることに比べれば、自動車が毎年数千人殺しても大したことではない、という意見が圧倒的に多いらしい。

これはなぜだろうか?

 

そもそも、自動車事故の死者数が過小評価されている気がする。

この資料(時事ドットコム:http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu)を見れば分かるように、この65年間の交通事故による死者数の合計は少なくとも50万人に上る。当然ながら、負傷した人はその数十倍はいるだろう。

この死者50万人というのはどれくらいの数字だろうか。

例えば、原子爆弾を見てみると、広島市の「原爆死没者名簿」に登録されているのは約27万人だ。これは、爆発だけでなく、放射能の後遺症で亡くなった方も含まれた数字だ。

自動車が、歴史的にみて、人を殺しまくっているのは間違いないし、これからも殺し続けるだろう。

つまり、今回のレベルの原発の放射能漏れが日本で50年に一度起こると仮定すれば、そのリスクを自動車事故と比較する場合は、1年間の死者数である<5000人>ではなく、50年分の死者数合計である<25万人>でなければならない。

つまり、「50年間に原発の放射能漏れが確実に起こる原発を造るのと、50年間に25万人を確実に殺す自動車を造るのと、どっちがマシですか?」という問題だ。

 

一方、世界に目を向ければ、年間40万人が自動車事故で死んでいる。(参照:統計局ホームページ http://www.stat.go.jp/data/sekai/14.htm#h14-05

先ほどと同様、原発の放射能漏れが世界で20年に一度起こると仮定した場合も、そのリスクを自動車事故と比較するのであれば、やはり、1年間の死者数である40万人ではなく、20年間の死者数である800万人と比較しなければならない。

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